栃尾城跡の【鶴城山】山頂からの景色は絶景。宝光院→山頂→栃尾大野町

鶴城山(かくじょうさん)

新潟の山歩き50選」と呼ばれる本の24番目に紹介されている山です。

本で紹介されている内容より引用

周回コース所要時間2時間25分
難易度★☆☆☆
地図

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序盤、道を間違えました。

タイムラプス

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最後に栃尾城址について長岡教育委員会が記載した文章を紹介します。

史跡しせき 栃尾城址とちおじょうし

栃尾城とちおじょうは、南北朝時代なんぼくちょうじだい正平しょうへい年間(南朝なんちょう方で使用された元号げんごう。1346年から1370年までの期間)に、下野しもつけ(栃木)の将芳賀禅可はがぜんか下越後しもえちご守護しゅごとして一時ここにより、当山を縄張なわばりにし要害堅固ようがいけんご山城やまじろとして築いたといわれ、室町時代むろまちじだいには、長尾氏ながおし被官ひかん本庄氏ほんじょうし歴代れきだい持城もちじろとなった。

越後えちごおす上杉謙信うえすぎけんしんは、少壮時代しょうそうじだい(14歳~19歳)栃尾に居て、端麟寺(瑞麟寺ずいりんじ?)門察和尚もんさつおしょう薫陶くんとうを受けるとともに城主じょうしゅ本庄慶秀ほんじょうよしひで補翼ほよくにより中越ちゅうえつ動揺どうようを静めて勇名ゆうめいせた。

謙信けんしん没後ぼつご御館おたての乱(天正6年1578年~8年)の際、城主じょうしゅ本庄秀綱ほんじょうひでつな上杉景虎うえすぎかげとら支持しじして上杉景勝うえすぎかげかつたたかってほろびたが、城は引続き上杉氏うえすぎし番城ばんじろとして景勝麾下かげかつきか諸将しょしょう交替こうたい在城ざいじょうした。

慶長けいちょう3年(1598年)上杉氏うえすぎし会津国替あいずくにがえの後は新領主しんりょうしゅ堀秀治ほりひではるの将神子田みこだ長門守ながとのかみ(八郎右エ門)が在城ざいじょうしたが、慶長けいちょう15年(1610年)堀氏ほりし改易かいえきともな廃墟はいきょとなった。

けわしい自然しぜん利用りようして空壕からぼり仕切しきった本丸以下ほんまるいかの諸曲輪くるわを1れつならべ、東側中腹ひがしがわちゅうふく広大こうだい千人溜せんにんだめそなえるという雄渾ゆうこん縄張なわばりや、本丸ほんまるかためた鉢巻石垣はちまきいしがき山腹さんぷくまでほり通した大規模だいきぼな縦空壕からぼりなど戦国時代せんごくじだい山城やまじろ遺構いこう好例こうれいである。

なお、この城は籠城用ろうじょうよう要害ようがいであって、城主じょうしゅ平生へいぜい政庁せいちょう居宅きょたく南麓なんろく大野町おおのまち地内の字館屋敷やしきにあった。

漢字にルビを振りましたが、間違っているかもしれません。読めない漢字ばかりでした。

以上になります。お読みいただきありがとうございました。

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